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【2024/10/06 05:49 】 |
中ノ森BANDの踊り
中ノ森BAND(なかのもりバンド)は、かつて存在したガールズバンド。2004年5月13日結成。元ヴィジョンファクトリー所属。テイチクエンタテインメント傘下のレコードレーベル、インペリアルレコードから2005年2月23日にCDデビュー。
ボーカルのAYAKOはファッション雑誌等でもよく紹介されている。阿久津健太郎などが作詞に関わっている事などから、いわゆる「アイドルバンド」としての評価を受ける事が多いが、音楽専門学校で培ったスキルを持つなど、本人らは正統派ガールズバンドとしての志向を持っている。
2008年3月27日ボーカルのAYAKOが本人のブログにて、喉の手術のため3月29日のライブをもってライブ活動を休止することを発表した。
2008年6月30日、音楽性の違いを理由として解散した。
目次 [非表示]
1 メンバー
2 出演
2.1 テレビ
2.2 ラジオ
2.3 映画
2.4 その他
3 ディスコグラフィー
3.1 シングル
3.2 アルバム
3.3 その他・参加作品
4 エピソード
4.1 TOMOEの活動休止
4.2 解散
4.3 外部リンク
5 脚注
メンバー [編集]

AYAKO
→中ノ森文子を参照。
SHINAMON
本名・三島亜紀子(みしま あきこ、1981年5月29日 - )
作詞・キーボード担当。血液型B型、神奈川県出身。
ヤマハ音楽院出身
メジャーデビュー前は『しなもん』という名前で出演していた(アルファベットではなく、カタカナでもない)。
「しなもん」という名前は昔シナモンが好きだったことに由来していたが、それほど好きでもなかったという。
作詞・作曲もこなし、中ノ森BANDとしてデビューする前の音楽学校時代は「しなもん」という名前でライブハウス四谷天窓を拠点にピアノ弾き語りのライブ活動をしたり、「しなもんcafe」というバンドを結成し同じくライブ活動を行ったりしていた。2nd Albumの『Do the Rock』に収録されている「Hey You!!」と「One☆Two☆Diving」は、SHINAMONによる作詞であった。しかし、中ノ森BANDの作品でSHINAMONが作曲を担当したものは無い。
2006年5月、歯が一本抜けてしまった。現在でもまだ歯を詰めておらず、ことあるごとにAYAKOに「歯を入れろ」と言われていた。
2008年6月30日の解散発表において、「これからはAYAKO、YUCCO、CHEETAメンバー個人個人の活動を見守って下さい。私自身もメンバーの今後を見守り応援していきたいと思っています。」と、自身の芸能界・音楽活動からの引退を示唆している。
YUCCO
本名・田口裕美子(たぐち ゆみこ、1982年4月5日 - )
作詞・作曲・ベース担当。血液型AB型、岡山県出身。
音楽学校アン・ミュージック・スクール出身。当時は樋沢達彦に師事[1]。
メジャーデビュー前は『たぐっちゃん』という名前で出演していた。
姉は競艇選手の田口節子。2005年4月にJLCのドキュメンタリー番組『水神〜挑戦者の鼓動〜』で節子が特集された時にはYUCCOもゲスト出演した。番組内では、YUCCOが過去に再生不良性貧血とバセドウ病で2度の入院をしたことが明かされた。節子は、そんな身体の弱い妹が単身上京し、アルバイトをしながら一人で夢に向って頑張っている姿に本当に励まされ、ここまで来られたと語る。
中学の頃ベースに興味を持ち、ベースを買いに楽器屋に行った。ところが、店員に「一人でベースやってもつまんないよ! ギターにしなよ」と言われギターを買って帰る。しかし、やはりベースがいいと改めて高校1年生の時にベースを始めたという。
ウッドベース、アップライトベースも弾きこなした。2006年6月24日O-EASTで行ったワンマンライブにて、アコースティックバージョンの磁石でアップライトベースを披露(2ndアルバム初回限定版DVDに一部収録)。
2005年夏から秋ごろ、インストゥルメンタルBAND「Gqlla」に加入(現在は不明)。
CHEETA
本名・浦本絵美(うらもと えみ、1979年9月21日 - )
ドラム担当。血液型B型、石川県出身。
バンタン芸術学院出身。
メジャーデビュー前は『ちいた』という名前で出演していた(『ちぃた』ではない)。
「Oh My Darlin'」のPVで使用しているドラムセットは私物(ちなみにこのドラムは、この種類では日本で一台目に輸入されたもの)。
ドラムスクールの講師という一面ももっていた。
2004年8月頃に myuuRy に加入した(2007年3月脱退)。
中ノ森BAND以前は生活が大変だった時期があったらしく、昔話をすると泣き出してしまうことがあった。
現在は東京ブラススタイルのドラム担当。
TOMOE
本名・手島友恵(てしま ともえ、1987年1月13日 - )
ギター担当。血液型A型、東京都出身。
メジャーデビュー前は『ともえ』という名前で出演していた(アルファベットでもなく、カタカナでもない)。
メジャーデビュー後はほぼAYAKOのみでMCを展開していたが、デビュー前はTOMOEも加わったかたちでMCが展開されていた。
学業専念のため、2005年9月30日で活動休止。但し、事実上はこの時点で引退したものと見られる。
出演 [編集]

テレビ [編集]
MTV Apt.(MTV、JST毎週金曜日25:00 - 25:30) (2006年10月 - 12月)
ラジオ [編集]
中ノ森BANDのラズベリーSHOW、Yeah!!(bayfm、JST毎週水曜日24:00 - 24:30)
コーナー紹介
アルバイターAYAKO(すでに終了)
ヴァ〜っとSHOUT!(すでに終了)
ヴァ〜〜〜っとSHOUT!シーズン2
あの人に会いたい!ふぁ〜お!(すでに終了)
AYAKOにキュー!
AYAKOエンジェル!
リアルAYAKOエンジェル!
TOMOEのわんこラブラブ!(すでに終了)
YUCCOのぼっけー気になる!(すでに終了)
SHINAMONのちょっぴりデンジャラス〜!(改名)
SHINAMONののっぺりたら〜りどーんデンジャラス〜!
CHEETAの私もたまにはしゃべります!
茶柱(ストリーミングプログラム版限定)
イキナリ!火曜日「中ノ森BAND・AYAKOのフォレストアワー」(TBCラジオ、毎週火曜日23:30 - 25:00)(2006年4月 - 2008年3月)
コーナー紹介
イキナリメールクラブ
イキナリスクエア「メルメル大作戦!!」
携帯変換、イキナリ!新日本語語録
みやぎオススメNET
イキナリ!モテモテ化計画
あの人の寝言
八木山塾(旧:八木山恋愛塾)
GOOD MORNING PORT CITY Saturday(FMポート) - AYAKOのみ、ゲスト
映画 [編集]
結婚しようよ(2008年、佐々部清監督) - AYAKO…主人公の次女、香取歌織 役、他メンバー…歌織のバンド仲間 役
その他 [編集]
日刊スポーツ創刊60周年記念 2006神宮外苑花火大会(2006年8月16日、明治神宮外苑) - 神宮球場のステージに出演
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【2010/11/17 22:29 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
トーキョースパムCHANNKOSUMOと荒井注
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トーキョースパムCHANNKOSUMO さーこれが

トーキョースパムCHANNKOSUMO 吉とでるか

トーキョースパムCHANNKOSUMO 凶とでるか

トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう

トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう
【2010/11/17 22:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとかぐや姫
├─≠ョ─ヵラス 南こうせつ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 「なごり雪」や「22才の別れ」といった作品も生み出した。
【2010/11/16 20:50 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと郷ひろみ
├─≠ョ─ヵラス お嫁サンバ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス郷 ひろみ(ごう ひろみ、本名は原武 裕美(はらたけ ひろみ)、男性、1955年10月18日 - )は、福岡県糟屋郡須恵町生まれの日本の歌手、俳優。身長178cm、血液型A型。
目次 [非表示]
1 生い立ち
1.1 幼少期
1.2 学歴
1.3 デビューのきっかけ
2 略歴
3 エピソード
3.1 デビュー〜2004
3.2 事務所移籍
3.3 ランク付拒否
3.4 大人の歌手へ脱皮
3.5 ゲリラ・ライブ
3.6 結婚・破局・女性関連
3.7 ニューヨーク充電後
4 作品
4.1 シングル
4.2 オリジナル・アルバム
4.3 ベスト・アルバム/コンピレーション/サントラ/他
4.4 ライブ・アルバム
4.5 VHS・DVD
5 主な出演
5.1 音楽番組
5.2 バラエティ
5.3 ラジオ
5.4 ドラマ
5.5 映画
5.6 舞台
5.7 イベント
5.8 キャンペーン
5.9 CM
6 受賞歴
7 書籍
7.1 著書
7.2 写真集
7.3 雑誌・漫画
7.4 名前が登場した作品
8 ビジネス
8.1 レストラン
8.2 ブランド
9 チャリティー活動
10 ファンクラブ
11 脚注
12 外部リンク
生い立ち [編集]

幼少期 [編集]
1955年10月18日に生まれた。本名は「原武(はらたけ)裕美」。もともとは士族で、「ひろみ」という名前は祖父が付けた。「心が“美しく”、いろんな意味で“裕福”になるように」という意味が込められているという[1]。
父は福岡県三潴郡三潴町出身、母は福岡県糟屋郡志免町出身。
生後まもなくジフテリアにかかり、3歳で赤痢にかかり、15歳で腹膜炎の一歩手前の状態で盲腸の手術を受けるなど、何度となく病にかかる。
子供の頃、福岡の家は牛や馬、鶏などの家畜がいる農家の住まいだった。
子供の頃は可愛くて評判だった。「『名犬ラッシー』の子役にそっくり」、「お人形さんみたい」と言われ、外国人と間違われることも多い日本人離れした美少年だった。
スパルタ教育の母親に厳しく躾けられて育った。「あなたは赤が似合う」という母の薦めで、赤いシャツを着用することが多かった。
旧国鉄職員の父親の転勤で4歳[2]の時に福岡から上京し、JR京浜東北線大井町駅に隣接する当時の国鉄大井工場敷地内に建つ社宅へ転居する。その後、父親は新橋駅・東京駅・尻手駅の助役として勤務した後、定年退職した。
学歴 [編集]
JR京浜東北線大井町駅近く、大正5年(1916年)10月18日開校の品川区立山中小学校卒業。
品川区立伊藤中学校卒業。中学生時代には友人と、ハーキュリーズ(Hercules)という野球チームを作っていた。
1971年4月、日本大学櫻丘高等学校に入学。野球部に所属するが芸能活動多忙により同年8月、堀越高等学校に転校。
1975年8月、高校を4年半かけて1人で卒業すると、今度は大学進学をめざすことを公表。
1977年3月、一浪後日本大学に合格するが、受講はせず除籍となる。
デビューのきっかけ [編集]
15歳になって、近所のおばさんが東宝映画『潮騒』(1971年)出演者募集に写真応募した。審査会場の銀座で買い物がしたいという安易な気持ちでオーディションを受けることを決めたが、会場に向かう途中で怖気づき「やっぱりやめる」と言ったら母親から「それでも九州男児か!」と数寄屋橋の交差点でビンタされて会場に行く。「体が小さい」ということで不合格になるが、審査員にいたジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川にスカウトされた。
略歴 [編集]

1971年、ジャニーズ事務所に所属しフォーリーブスのバックに出演して人気を博し、ファンの声援レッツゴーひろみから芸名は郷ひろみに決まる。大阪でファンクラブ発足。
1972年1月、NHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優デビュー。
1972年8月1日、歌手デビュー。所属レコード会社はCBSソニー(現、ソニー・ミュージックエンタテインメント)。
1972年11月、デビュー曲『男の子女の子』がオリコンのベストテン入りを果たし、第14回日本レコード大賞・新人賞を受賞。
1973年、ブロマイド年間売上実績No.1に輝き、一躍トップアイドルの仲間入りを果たす。西城秀樹、野口五郎と共に新御三家といわれ一世を風靡する。
1973年12月31日、第24回NHK紅白歌合戦に初出場(1985年まで13年連続出場)。
1974年、初主演のテレビドラマ『ちょっとしあわせ』の主題歌『よろしく哀愁』で、自身初のオリコン・ヒットチャート第1位を獲得。
1975年、バーニングプロダクションに移籍。
1976年、『さらば夏の光よ』で映画初主演。
1976年、第18回日本レコード大賞・大衆賞を受賞し、ノミネート会場で号泣。
1977年、テレビドラマ『ムー』に出演して人気を博す。再びブロマイド年間売上実績No.1となった。
1978年、テレビドラマ『ムー一族』の挿入歌『林檎殺人事件』が『ザ・ベストテン』で自身初の第1位を獲得。
1979年、『明星』「アイドル人気投票」で、7年連続で1位獲得(日本テレビ音楽祭・トップアイドル賞受賞)。
1979年、日本レコード大賞など音楽賞の出演を拒否する。「目先のことに一喜一憂することなく、長期的な視野にたって、自分自身のことについて考えたい。」
1979年、テレビドラマ『家路』の挿入歌『マイレディー』が『ザ・ベストテン』で5週連続・第1位を獲得。
1982年、『ザ・ベストテン』等、音楽に関するランキング番組の出演をすべて拒否する。
1985年1月、交際していた松田聖子と破局。
1985年12月、ホノルルマラソン完走。
1987年6月12日、二谷友里恵と結婚。霊南坂教会とシドニーのセントメリーズ教会で挙式し、新居をニューヨークに構える。
1989年、ニューヨークの住居を引き払い、日本に帰国。
1993年、ハリウッド映画『Samurai Cowboy』に主演。
1997年2月、イタリアンレストランSOGNI di SOGNI、大阪ドーム店オープン。
1997年2月11日、名古屋御園座『愛・時をこえて ドラキュラ・イン・ジャパン』座長公演で、昼の公演中にステージ上約3メートルの仕掛けから転落し、右手骨折と肋骨骨折など、全治約1か月半の重傷を負ったが、そのまま続行して演じ終えた。
1997年9月、日本武道館でデビュー25周年公演開催。
1998年4月9日、離婚発表と同時にその経緯を告白本にした『ダディ』を出版。ミリオンセラーとなる。
1999年8月、『GOLDFINGER '99』のプロモーションとして、JR渋谷駅前の交差点にトラックを止め、警察に無届けでゲリラライブを敢行。交通渋滞を引き起こし刑事事件に発展した。
1999年11月7日、ニューヨークシティーマラソン完走。
2000年、道路運送車両法違反のため、警察署に出頭する。
2000年9月27日、松田聖子とのデュエット曲をリリース。
2000年11月9日、NY在住の投資家・大根田勝美の娘でアルマーニショップ店員の大根田名美と再婚。NYフォーシーズンズホテルにて、近親者だけで挙式。
2001年12月、第52回NHK紅白歌合戦出演を最後に音楽活動を一時休止し、再びニューヨークに移住。
2004年12月6日、二谷友里恵に対し、離婚に際して交わした娘2人の養育費1億5000万円を信託銀行に預託するとの取り決めを実行していないことや、郷が娘に会う面会権を妨害され精神的損害を受けたとして訴訟を起こす。
2005年3月、芸能活動再開を宣言。
2005年4月21日、公式ホームページ上で突然二度目の離婚を発表する。「それぞれの道を歩んでいくことが今後の2人にとって最善の方法。ボクはより一層努力し郷ひろみを極めたい。」
2005年10月、大阪で50歳を祝う「スペシャルバースデーライブ」開催。大阪はファンクラブが発足した思い出の地。
2006年9月、デビュー35周年記念ライブとして、東京日比谷野外音楽堂など全国6か所で8公演を開催。
2006年11月、ジュエリーブランドRosen Hemdenのプロデュースを始める。利益の一部は寄付されている。
2007年、1995年よりチャリティー活動を実践し、アジアの子供達のために寄付を続け、フィリピンにおいて4つの学校建設に貢献した。
2007年5月27日、渋谷で8年ぶりに新曲イベントを行う。
2009年9月2日、刑事事件に発展した渋谷の不祥事から10年、大阪・道頓堀のグリコ前に船で現れ、ゲリラ風新曲イベントを開いた。
2010年4月12日、東京中日スポーツ創刊55周年「スペシャルサポーター」に就任。
2010年10月18日、55歳誕生日に2度目の日本武道館公演「55!伝説」開催。1955年生まれで55歳になり全国ツアー55公演目のファイナルステージ。
エピソード [編集]

デビュー〜2004 [編集]
デビュー当時、母親は原宿で美容院を経営していた。福岡県糟屋郡志免町の母親の実家の祖父母が「ひろみ」の焼印がされた紅白の「ひろみ饅頭」[3]の製造販売を始め、現在は叔父叔母が「御菓子ひろみ」[4]を営んでいる。
デビュー前、フォーリーブスのバックに出演し「ひろみです!」と紹介され、会場から「Go! Go! Let's Go Hiromi !」と声援を受け、そのまま芸名が郷ひろみとなる。また「郷」にはフォーリーブスの弟「5人目のフォーリーブス」という意味もかけている。女の子に間違えられる位に甘美で可愛らしいルックスと鼻にかかった独特の歌声が、若い女性の人気を博し、ファンによる親衛隊も誕生した。
1974年10月、ドラマ『ちょっとしあわせ』で、共演の高沢順子とのキスシーンが騒動になる。ファンから局側に脅迫状が殺到。急きょ唇寸前でカット。釈明試写も開いて対応した。
デビュー当時、週刊誌に自分はマザコンで童貞であることを告白して話題となったが、後に、初体験は20歳だったと告白した。また1980年代に坂本龍一との雑誌対談で、ソープランド初体験の時の事をリアルに告白。人気アイドルの告白だけに話題になった。近年では、アダルトビデオの類は観たことがないと言っている。
アイドル水泳大会では競泳など多くの競技に出場し、特にフジテレビの番組では『ミスター水泳大会』と呼ばれた。27歳ぐらいの時、水泳のコーチについて泳ぎを教わる。近年「この頃は、ちゃんとした水泳の泳ぎ方を知らずに、気力と負けず嫌いの性格だけで僕は勝っていた!」と当時を振り返り明かしている。2000年、深夜のバラエティ番組『ヤミツキ』水泳大会で10数年ぶりに水着姿を披露した。
1984年2月25日リリース『2億4千万の瞳』は国鉄のキャンペーンに使われたが、これは郷の父親が国鉄職員であった縁によるとされる。2007年にはこの曲をアレンジしたものがBSデジタル放送3000万台突破記念キャンペーンソングとして用いられている。
2000年11月、発表のエッセイ『若気の至り』では裏表紙に自らの女性遍歴[5]を年表風にまとめ「大丈夫かこいつ?」と自虐的コピーをつけ『ダ・ヴィンチ』(2月6日号)で腰巻き大賞に選ばれる。「単に奇をてらう言葉ではなく著者の存在感との合わせ技だ。自虐的なコピーなのに少しも嫌味がないし、かえって好感に繋がってしまうのはヒロミ・ゴーの器量だろう」と選評された。
2001年6月にリリースした『獣は裸になりたがる』のジャケット写真は、特殊メイクで自ら「獣」になっている。この新曲キャンペーンで、フジテレビ系バラエティー番組『笑う犬の冒険』の「はっぱ隊」のコーナーに出演。素っ裸で(実際は肌色のパンツを着用)股間にはっぱ一枚、郷特製ゴールデンリーフを付け、YATTA!の歌を踊りながら熱唱した。
事務所移籍 [編集]
1975年春、ジャニーズ事務所からバーニングプロダクションへ移籍。このジャニーズJr(6人)も伴った移籍騒動で、ジャニー喜多川社長は体調を崩すほどショックを受けたと言われる。フォーリーブスの江木俊夫は著書の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう。」と述べている。
1972年、『小さな体験』で初出演した『夜のヒットスタジオ』は、ジャニーズ事務所の「アイドルを夜の番組にはあまり出演させたくない」という方針から 新御三家の中では出演機会が少なかったが、バーニングプロダクション移籍後は原則として月1回のペースで出演するようになる。1982年、ランキング番組出演辞退の後もトリをつとめたり、過激かつ派手な演出を用意されるなど厚遇を受けた。1972年〜1990年6月27日までの総出演回数は175回で、田原俊彦と共に『ミスター夜ヒット』とも呼ばれた。
ランク付拒否 [編集]
1979年、「くれる物は戴きますが、今後授賞式には参加しない。」と、日本レコード大賞などの音楽賞への出演を辞退することを公表する。数年後のインタビューで「年々権威が落ちていく音楽賞には興味がない。」と語った。ただし、1990年代に入ると日本有線大賞には数回出演し賞を受けているほか、1999年にはレコード大賞・最優秀歌唱賞受賞の打診を受けると、大衆賞を取った1976年以来23年ぶりに日本レコード大賞のステージに立ち、ヒットメドレーを熱唱した。
1982年8月、『哀愁のカサブランカ』で10か月ぶりに『ザ・ベストテン』にランクインするが、「自分にとっては自分自身の歌は全部1番、他人に自分の歌のランク付けされるのは賛成しかねる。」という理由で、「今後すべてのランキング番組の出演を辞退する」と発表。
当時、郷の音楽プロデューサーだった酒井政利は、雑誌『KAMZINE』(2005年6月号)で一連の辞退について触れ「新御三家として括られるのも好きでなかったし、アイドル的な定型から脱皮したいと思っていた。そして「自分は人とは違うんだ!」という差別化戦略を選んだ。」と、戦略・挑戦のひとつだったことを明かしている。
大人の歌手へ脱皮 [編集]
1980年代、洋楽バラードのカヴァーを次々と発売し、アイドル歌手から大人の魅力を持った本格派歌手への脱皮を図る。その洋楽カバー『哀愁のカサブランカ』は初めての本格的スロー・バラードのシングル曲であり、『よろしく哀愁』以来自身2度目の50万枚突破を記録した。また、ニューヨークでボイストレーニングを受けブレス使いで力まずに声を出す手法を会得し、スロー・バラードをじっくり聞かせられるまでに歌唱力がアップする。1990年代中頃のバラード3部作のヒットにも繋がった。
ゲリラ・ライブ [編集]
1999年8月、『GOLDFINGER '99』のプロモーションとして、JR渋谷駅前の交差点にトラックを止め、警察に無届けで白昼ゲリラライブを敢行。マスコミが逆サイドからカメラを構え、野次馬などが交差点に押し寄せ、路線バスなど30分に渡って立ち往生し数本運休するという交通渋滞を引き起こす騒動になり、現場関係者6人が道路交通法違反容疑で書類送検される事件に発展した。レコード会社のプロデューサーは懲役3か月、執行猶予2年の判決を受けた。当事者の郷は「何処でやるのかさえ知らされていなかった。」と、罪には問われなかった。
結婚・破局・女性関連 [編集]
1978年、ロス在住の日系アメリカ人女性と破局。1985年、祇園の芸妓と浮名を流し、六本木のクラブのNo.1ホステスと『フライデー』される。
1985年1月、交際を公にしていた松田聖子が突然単独で、東宝スタジオの食堂にて涙の破局会見を行った。この会見で松田は「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と語ったが、ここから1ヵ月後に神田正輝と結婚を発表した。また後に郷は、「会見することも知らなかった。あんなセリフも言っていない。僕が生まれ変わって虫だったらどうする気だろう?」とジョークを交じえて否定した。
1986年、六本木のディスコで郷が一目ぼれし声をかけ出会った二谷友里恵と、東京白金台カフェのオープンテラスで写真誌に2ショットを撮られる。
1987年6月、二谷友里恵と結婚。結婚披露宴の模様はフジテレビが中継し、視聴率47.6%を記録(披露宴中継、歴代最高視聴率)。結婚後、2年間ニューヨークに移住するなどし、2女を儲けた。
1998年4月、結婚から11年で離婚。養育費として1億5千万円を支払う。離婚の際発表した離婚告白本『ダディ』(幻冬舎)はミリオンセラーとなる。
1999年、投資家の大根田勝美が郷ひろみに縁談を持ちかけ、娘の名美がニューヨークのアルマーニでショップ店員をしていたところへ郷が訪れるかたちで出会う。京都の料亭で写真誌に撮られ交際が発覚。
2000年8月、郷の再婚が話題になり始めると、二谷友里恵は郷の親友でもあった「家庭教師のトライ」創業者の平田修と一足先に再婚した。二谷は郷と結婚後、二谷の遊び仲間の財界人から平田を紹介され、二谷が平田を郷に紹介したことで夫婦共通の親友となり郷は信用しきって、離婚前から郷の承認で二谷と平田は2人きりで旅行していた。また全国の女性ファンやその子供をターゲットに郷は「家庭教師のトライ」のパンフレットにも登場し、全国ツアーではステージ上で、コンサート開始前に異例の「家庭教師のトライ」スクリーンCMを流すなどして平田の会社PRに協力していた。郷夫婦が離婚の話し合いを始めたのは1996年秋頃からで、平田は1997年に配偶者と離婚、郷と二谷は1998年4月に離婚したが、郷はまさか2人に男女の関係があるとは思ってはいなかった[6]。
2000年10月、交際していた大根田名美と11月に結婚すると発表。ファンに対して「一日の23時間55分が郷ひろみであり、残りの5分間だけが原武裕美に戻る時間。原武裕美は結婚しても郷ひろみは結婚しない。」と説明した。
2001年3月、年内いっぱいで日本での芸能活動を一時休止し、妻の実家のあるニューヨークに移住することを発表。
2001年5月、二谷友里恵は、ダディの続編的告白本『楯』(文藝春秋 )を発売し、離婚後の二方の確執が明らかになった。タイトル『楯(タテ)』は50音順に並べた場合、必ず郷の出版した『ダディ』のすぐ前にくるように意識したとの説がある。内容について郷は、「子供たちのために反論しない」とノーコメントを通した。
2004年12月、郷は二谷に対し、離婚に際して交わした娘2人の養育費1億5000万円(各7500万円)を信託銀行に預託するとの取り決めを実行していないことや、郷が娘に会う面会権を妨害され精神的損害を受けたとして2000万円を請求する訴訟を起こした。離婚後、継続して交渉が行われた結果、訴訟という形になった[7]。
2005年4月21日、二度目の離婚。慰謝料なし。「郷ひろみを極める。」とコメントした。2人は元々互いに好みではなかったが、父親の大根田勝美がお金は充分に貯えたから今度は娘の結婚相手に一流スターを迎えたいと積極的だったため結婚に至った。父親の大根田は来日して郷の両親宅を訪問し、「ご迷惑をおかけしました。」と謝罪した[8]。
2006年9月、日本テレビ系「ザ・ワイド」で特別インタビューを受けた最後に「まだ核心に触れてませんよね?」と、同年4月に新幹線のシートで女性とFLASHされた件を自ら切り出したが、結局核心には触れなかった。
2006年12月6日、芸能ネタとなった石原真理子の自伝『ふぞろいな秘密』の中で、1987年春頃、共演映画『さらば愛しき人よ』のロケ先で郷と肉体関係になったと書かれた。
2007年7月、出演したマンダムCMで、松田聖子の曲「青い珊瑚礁」の替え歌を歌う。当初は松田とのデュエットが企画されていたが、松田側が拒否したため、ソロで歌うことになった。CM発表会では、「僕がまさかOKするとはメーカーさんも思っていなかったんじゃない?」と答えた。2008年11月の『ベストヒット歌謡祭』でもメドレー冒頭で、松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌った。
ニューヨーク充電後 [編集]
2005年4月、新曲を発表し日本での芸能活動を再開。同時に2度目の離婚も発表。「僕はこれからもなおいっそう努力して郷ひろみを極める。」
2006年5月、埼玉スタジアムで行われたキリンカップ2006「日本VSスコットランド」戦において国歌独唱を行なった。全身ブルーのスーツで登場し歌い終わった後には、お得意のジャケットプレイで、JFAフラッグを用いたスーツ裏地を見せ、スタジアムをどよめかせた。
2006年7月、9月6日発売の新曲『LIFE』で、50歳を記念して郷と同じ1955年生まれの男性を公募し、ビデオクリップで共演する企画に700人以上の応募者があった。
2007年5月、国土交通省が展開する「ビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)」のテーマソングに『Come On Baby』が決まり、大臣から感謝状を手渡された。歌詞には訪日旅行のアピールに“Yokoso”という言葉を散りばめ、日本語のみでなく英語バージョンもあり、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、タイ語の「ようこそ、日本」を意味する言葉が間奏に盛り込まれ、CDのパッケージに“Yokoso! Japan”のステッカーを添付した。
2007年5月、NHKの『英語でしゃべらナイト』に出演し、ニューヨーク仕込みの流暢な英語を披露した。司会のパックンには「大学生レベルの英語」と評される。番組内では英語で「考える・行動する・継続する」という人生の哲学を語った。同番組内で新曲『Come On Baby』の英語バージョンを披露する。
2007年5月、放送の日本テレビ「トシガイ」(自分の年齢の数だけ(51歳×1万円)お金を好きなものに使えるという番組企画)を通じて自身が学校建設に貢献したフィリピンを初めて訪問し、子供たちから歓迎を受ける。51万円でフィリピンの子供たちに文房具、Tシャツなどをプレゼントした。これからもライフワークにしていきたいと語った[9]。
2007年5月、日本テレビで中継された藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴で、スペシャルゲストとして『お嫁サンバ』を歌う。中継は高視聴率をマーク。
2007年6月、『お嫁サンバ』の歌詞「恋する女はきれいさ〜」の「女」の部分に100種類の女性の名前を入れた「着うた」の配信を開始。かつての交際相手「せいこ」(松田聖子)、元妻「ゆりえ」(二谷友里恵)、前妻の「なみ」(大根田名美)の名前もエントリーされた。披露宴で「恋する紀香は・・・」と歌ったのが反響を呼び、「着うた要望が殺到したから」と説明された。
2009年3月9日、『しゃべくり007』に出演した際、「2人目の子どもができて以来、エッチしていない」、「AVは観たことないし一切持っていない。家に取材に来ても良いよ!」、「今までの5人としか付き合ったことがない。水を飲めば性欲を抑えることができる。」と回答した。
2009年12月、カリフォルニア州の最高級ぶどう畑を買い付け、最高級のぶどうで最高級ワインを造り、郷がデザインした「5」ラベルのワイン「マグニフィカファイブ」を歳暮に贈る[10]。
【2010/11/12 18:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
金子千尋の連勝踊り
金子 千尋(かねこ ちひろ、1983年11月8日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。背番号は19。愛称は「ネコ」「ちーちゃん」など。
目次 [非表示]
1 プレイスタイル
2 経歴
2.1 プロ入り前
2.2 プロ入り後
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 タイトル・表彰
4.3 記録
4.4 背番号
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
プレイスタイル [編集]

最速154km/hで先発完投した試合では9回にも150km/h前後を計測した速球、先発転向後精度が向上した縦のカーブ、カット・ファスト・ボール、スライダー、シュート(左打者に対してはツーシーム[1])、チェンジアップ、フォークボール(本人曰くスプリット[1])ワンシーム[2]を投げ分ける。
四球が少なく、与四球率は通算で2.06と優秀な数値をマークしており、特に2008年からは3年連続で1個台をマークしている(2008年1.85、2009年1.78、2010年1.94)。
奪三振数の多い投球スタイルだが、本人は「ブルペンで投げている時の方が力を入れて投げている。マウンドに上がると上手く打者を打ち取ってやろうという気持ちになる」と語っている。
投手としては比較的珍しい右投げ左打ちで、高校時代までは打撃練習にも意欲的に取り組み長野のイチロー(名前からチヒローとも)と呼ばれ、2008年のセ・パ交流戦では通常投手の入る9番ではなく8番として出場したこともあった。
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
新潟県三条市出身、小学4年時に長野市へ転居。長野商業高校では、2年春の第72回選抜高等学校野球大会に出場し、2回戦で近澤昌志・平野佳寿らを擁する鳥羽高校に敗れた。夏は長野大会準優勝。3年夏には2回戦で7回参考ながらノーヒットノーランを達成したが、準決勝で12奪三振を記録しながら塚原青雲高校に敗れた。高校卒業後は社会人野球のトヨタ自動車に入社して3年目に抑えとして頭角を現し、都市対抗野球大会でも好投した。
2004年のドラフト会議において自由枠でオリックスに入団。なお、自由枠での入団が決定的になった後に肘の故障が明らかになりオリックスが獲得を撤回するという報道が流れ、プロ野球の厳しさを肌で感じたことがプロ入り後役に立っているという。
プロ入り後 [編集]
2005年は前述の故障の影響で一軍登板はなかったが、ウエスタン・リーグで防御率0点台の好成績を残した。
2006年は主に中継ぎで登板しプロ初勝利も挙げた。7月には先発も試されたがその後は再び中継ぎに落ち着き、9試合連続無失点救援も記録した。
2007年は前半戦は中継ぎとして登板。8月18日の対西武戦から先発投手に転向し、同日に先発初勝利を記録すると次の登板で初完封を記録した。その後も好投が続き、10月2日のシーズン最終登板を2度目の完封、先発転向後6連勝で締めくくった。シーズン後、コリンズ監督は「もう少し早く先発で使うべきだった。(今季)高得点をあげることができる数少ない選手の1人」と絶賛した。同年はセ・パ交流戦頃に『肘にあまり不安を感じなくなったこと』、『気温が暖かくなってきたこと』などを理由に、社会人時代からの持ち球だったが肘の故障によりプロ入り後は実戦での投球を控えていたカットボールを解禁した。これによりリリーフとしては開幕からの不振を脱し、先発転向後はカウントを整えたり少ない球数で打ち取ることができた。同年、高校の同級生と結婚した。
2008年2月に第一子となる長男が誕生。シーズンでは開幕投手に指名され、7回1失点10奪三振で勝利投手になる。平野やトム・デイビーの故障離脱もあって先発ローテーションの軸となったが、5月11日の対西武戦では5回途中5失点で敗戦投手となった上に中村剛也に頭部死球を与えて危険球退場するなど、4月下旬から交流戦にかけては精彩を欠いた。交流戦途中からリリーフに回ったが、リーグ戦再開後に先発に復帰すると7月は4戦4勝で月間MVPを受賞。9月7日の対西武戦では8回途中2失点で自身初の2桁勝利となる10勝目を挙げ、4点近い防御率ながら9年ぶりとなるチームのAクラス入りに貢献した。小松聖に次ぐチーム2位の投球回数で初めて規定投球回に到達し、リーグ8位の奪三振数を記録。一方で、被安打と被本塁打は共にリーグ2位を記録。シーズン中の好不調の波が激しかったことも含め、課題も残した。
2009年は開幕から先発ローテーション入り。開幕直後はやや不調だったが徐々に調子を上げて5月5日の対ソフトバンク戦で2年ぶりの完投勝利を記録し、6月にはチーム全体で4勝だったうちの3勝を挙げるなど安定した投球を続けた。同年のオールスターに監督推薦で初出場し、第2戦で3回無失点に抑えてベストピッチャー賞を受賞した。8月22日の対楽天戦では2試合連続完封勝利で、球団史上星野伸之以来12年ぶりの2年連続2桁勝利を達成した。9月からは加藤大輔の不調により、大石大二郎監督が春季キャンプ前に先発投手6人を集め「緊急時にリリーフに転向できる投手は?」と聞いた際に金子だけが挙手していた事と、リリーフ経験がある事から抑えに転向。シーズン初セーブを挙げた9月12日の対西武戦ではチームの6連敗を止めるなどし、11勝8敗4セーブで共にリーグ5位の防御率2.57と165奪三振を記録、被安打と被本塁打は前年より減少した。
2010年は2年ぶりに開幕投手となり、楽天打線を4安打に抑えて無四球完封勝利を挙げた。しかし、次の試合以降は調子を崩し、5月21日の阪神戦では8点リードながら5回表にいきなり5失点KOされるなど、試合中盤に突如大量失点を喫するケースが目立った。清川栄治投手コーチによれば、「完璧を求めるタイプで、打ち取り方にまでこだわる」という繊細さが裏目に出て、コースを狙いすぎて腕が振れなかったのが、6月までの不調の要因だったようである。[3]だが、7月1日の対楽天戦でシーズン3度目の完封勝利を挙げると、続く7月8日の西武戦でも完封勝利を挙げた。そして、7月14日の対ロッテ戦で、米田哲也以来球団史上45年ぶりの3試合連続完封を記録した。すると、7月に5戦全勝、8月にも5戦全勝を記録して、2ヶ月連続で月間MVPに選出され、9月20日の日本ハム戦まで13連勝を達成。好不調の波はあったものの、自己最多となる17勝(球団では1993年の野田浩司以来の記録)を挙げ、ソフトバンクの和田毅と最多勝を分け合った。また、初の200イニング、自己最多となる190奪三振、7完投6完封と好成績を収めた。
人物 [編集]

2006年の宮古島キャンプではトレーニングを兼ねて訪れていたイチローと紅白戦で対戦し、初球にカーブを投げてリードした前田大輔にも責任はあるもののチームメイト(当時)の清原和博に「ストレートを放らんか」と怒られた。これについては後に自分の一番良い球で抑えてアピールしないといけないという持論を語っている。
登板する際に流れる登場曲がDJ OZMAの「超!」、「Spiderman」だった事もあり、ルックスとのギャップが球団関係者の間で話題となった。
かなりのお笑い好きで、球団の公式携帯サイトのブログや自身の公式ブログでその事を発表している。
2010年4月29日にソフトバンクから金子圭輔がトレード移籍してきたことに伴い、報道やスコアボードでの表記名が「金子千」となった。ただしバランスが悪いからという理由で、5月8日の対ロッテ戦から電光掲示板の表示をフルネーム(4文字)に変更している[4]。
【2010/11/08 22:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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