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【2024/10/06 07:41 】 |
金子千尋の連勝踊り
金子 千尋(かねこ ちひろ、1983年11月8日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。背番号は19。愛称は「ネコ」「ちーちゃん」など。
目次 [非表示]
1 プレイスタイル
2 経歴
2.1 プロ入り前
2.2 プロ入り後
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 タイトル・表彰
4.3 記録
4.4 背番号
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
プレイスタイル [編集]

最速154km/hで先発完投した試合では9回にも150km/h前後を計測した速球、先発転向後精度が向上した縦のカーブ、カット・ファスト・ボール、スライダー、シュート(左打者に対してはツーシーム[1])、チェンジアップ、フォークボール(本人曰くスプリット[1])ワンシーム[2]を投げ分ける。
四球が少なく、与四球率は通算で2.06と優秀な数値をマークしており、特に2008年からは3年連続で1個台をマークしている(2008年1.85、2009年1.78、2010年1.94)。
奪三振数の多い投球スタイルだが、本人は「ブルペンで投げている時の方が力を入れて投げている。マウンドに上がると上手く打者を打ち取ってやろうという気持ちになる」と語っている。
投手としては比較的珍しい右投げ左打ちで、高校時代までは打撃練習にも意欲的に取り組み長野のイチロー(名前からチヒローとも)と呼ばれ、2008年のセ・パ交流戦では通常投手の入る9番ではなく8番として出場したこともあった。
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
新潟県三条市出身、小学4年時に長野市へ転居。長野商業高校では、2年春の第72回選抜高等学校野球大会に出場し、2回戦で近澤昌志・平野佳寿らを擁する鳥羽高校に敗れた。夏は長野大会準優勝。3年夏には2回戦で7回参考ながらノーヒットノーランを達成したが、準決勝で12奪三振を記録しながら塚原青雲高校に敗れた。高校卒業後は社会人野球のトヨタ自動車に入社して3年目に抑えとして頭角を現し、都市対抗野球大会でも好投した。
2004年のドラフト会議において自由枠でオリックスに入団。なお、自由枠での入団が決定的になった後に肘の故障が明らかになりオリックスが獲得を撤回するという報道が流れ、プロ野球の厳しさを肌で感じたことがプロ入り後役に立っているという。
プロ入り後 [編集]
2005年は前述の故障の影響で一軍登板はなかったが、ウエスタン・リーグで防御率0点台の好成績を残した。
2006年は主に中継ぎで登板しプロ初勝利も挙げた。7月には先発も試されたがその後は再び中継ぎに落ち着き、9試合連続無失点救援も記録した。
2007年は前半戦は中継ぎとして登板。8月18日の対西武戦から先発投手に転向し、同日に先発初勝利を記録すると次の登板で初完封を記録した。その後も好投が続き、10月2日のシーズン最終登板を2度目の完封、先発転向後6連勝で締めくくった。シーズン後、コリンズ監督は「もう少し早く先発で使うべきだった。(今季)高得点をあげることができる数少ない選手の1人」と絶賛した。同年はセ・パ交流戦頃に『肘にあまり不安を感じなくなったこと』、『気温が暖かくなってきたこと』などを理由に、社会人時代からの持ち球だったが肘の故障によりプロ入り後は実戦での投球を控えていたカットボールを解禁した。これによりリリーフとしては開幕からの不振を脱し、先発転向後はカウントを整えたり少ない球数で打ち取ることができた。同年、高校の同級生と結婚した。
2008年2月に第一子となる長男が誕生。シーズンでは開幕投手に指名され、7回1失点10奪三振で勝利投手になる。平野やトム・デイビーの故障離脱もあって先発ローテーションの軸となったが、5月11日の対西武戦では5回途中5失点で敗戦投手となった上に中村剛也に頭部死球を与えて危険球退場するなど、4月下旬から交流戦にかけては精彩を欠いた。交流戦途中からリリーフに回ったが、リーグ戦再開後に先発に復帰すると7月は4戦4勝で月間MVPを受賞。9月7日の対西武戦では8回途中2失点で自身初の2桁勝利となる10勝目を挙げ、4点近い防御率ながら9年ぶりとなるチームのAクラス入りに貢献した。小松聖に次ぐチーム2位の投球回数で初めて規定投球回に到達し、リーグ8位の奪三振数を記録。一方で、被安打と被本塁打は共にリーグ2位を記録。シーズン中の好不調の波が激しかったことも含め、課題も残した。
2009年は開幕から先発ローテーション入り。開幕直後はやや不調だったが徐々に調子を上げて5月5日の対ソフトバンク戦で2年ぶりの完投勝利を記録し、6月にはチーム全体で4勝だったうちの3勝を挙げるなど安定した投球を続けた。同年のオールスターに監督推薦で初出場し、第2戦で3回無失点に抑えてベストピッチャー賞を受賞した。8月22日の対楽天戦では2試合連続完封勝利で、球団史上星野伸之以来12年ぶりの2年連続2桁勝利を達成した。9月からは加藤大輔の不調により、大石大二郎監督が春季キャンプ前に先発投手6人を集め「緊急時にリリーフに転向できる投手は?」と聞いた際に金子だけが挙手していた事と、リリーフ経験がある事から抑えに転向。シーズン初セーブを挙げた9月12日の対西武戦ではチームの6連敗を止めるなどし、11勝8敗4セーブで共にリーグ5位の防御率2.57と165奪三振を記録、被安打と被本塁打は前年より減少した。
2010年は2年ぶりに開幕投手となり、楽天打線を4安打に抑えて無四球完封勝利を挙げた。しかし、次の試合以降は調子を崩し、5月21日の阪神戦では8点リードながら5回表にいきなり5失点KOされるなど、試合中盤に突如大量失点を喫するケースが目立った。清川栄治投手コーチによれば、「完璧を求めるタイプで、打ち取り方にまでこだわる」という繊細さが裏目に出て、コースを狙いすぎて腕が振れなかったのが、6月までの不調の要因だったようである。[3]だが、7月1日の対楽天戦でシーズン3度目の完封勝利を挙げると、続く7月8日の西武戦でも完封勝利を挙げた。そして、7月14日の対ロッテ戦で、米田哲也以来球団史上45年ぶりの3試合連続完封を記録した。すると、7月に5戦全勝、8月にも5戦全勝を記録して、2ヶ月連続で月間MVPに選出され、9月20日の日本ハム戦まで13連勝を達成。好不調の波はあったものの、自己最多となる17勝(球団では1993年の野田浩司以来の記録)を挙げ、ソフトバンクの和田毅と最多勝を分け合った。また、初の200イニング、自己最多となる190奪三振、7完投6完封と好成績を収めた。
人物 [編集]

2006年の宮古島キャンプではトレーニングを兼ねて訪れていたイチローと紅白戦で対戦し、初球にカーブを投げてリードした前田大輔にも責任はあるもののチームメイト(当時)の清原和博に「ストレートを放らんか」と怒られた。これについては後に自分の一番良い球で抑えてアピールしないといけないという持論を語っている。
登板する際に流れる登場曲がDJ OZMAの「超!」、「Spiderman」だった事もあり、ルックスとのギャップが球団関係者の間で話題となった。
かなりのお笑い好きで、球団の公式携帯サイトのブログや自身の公式ブログでその事を発表している。
2010年4月29日にソフトバンクから金子圭輔がトレード移籍してきたことに伴い、報道やスコアボードでの表記名が「金子千」となった。ただしバランスが悪いからという理由で、5月8日の対ロッテ戦から電光掲示板の表示をフルネーム(4文字)に変更している[4]。
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【2010/11/08 22:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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