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【2024/10/06 09:38 】 |
平野佳寿の変則踊り
平野 佳寿(ひらの よしひさ、1984年3月8日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 個人記録
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
京都府宇治市出身。小学3年時に軟式少年野球チームの「小倉リトルズ」で野球を始め、捕手兼内野手としてプレー。宇治市立北宇治中学校時代は軟式野球部に所属して投手に転向。鳥羽高校在学中に同校は第72回選抜高等学校野球大会、第82回全国高等学校野球選手権大会、第73回選抜高等学校野球大会と3季連続で甲子園に出場するが、腰痛もあって2番手投手に甘んじ選手権大会ではベンチ入りメンバーからも外れた。
関西六大学野球連盟所属の京都産業大学に進学後は2年時からエースとして活躍し、大学ナンバーワン右腕と評された。大学通算36勝、404奪三振のリーグ新記録を樹立し、関西運動記者クラブによる第49回(平成17年度)関西スポーツ賞(個人の部)に選出された。
2005年の大学・社会人ドラフトにおいて希望枠でオリックスに入団。入団会見では「10勝以上勝って新人王を獲得したい」と語った。
プロ入り後 [編集]
2006年はプロ初先発となった3月30日の楽天戦で初勝利を挙げ、4月6日の千葉ロッテマリーンズ戦では新人で一番乗りとなる完封勝利を挙げた。前日まで完封勝利を挙げた投手がおらず、新人でシーズン一番乗りとなる完封勝利の可能性があったが、平野が完封勝利を挙げる約9分前にダルビッシュが完封勝利を挙げシーズン一番乗りの完封勝利は逃した。その後も長谷川滋利以来の新人3完封勝利を序盤戦で達成するなどの活躍を見せ、八木智哉とハイレベルな新人王争いを繰り広げ、共にオールスターに監督推薦で選ばれた。しかし、中村勝広監督が「平野は新人王のために完投させる」と公言し完投を強いて、セ・パ交流戦では先発ローテーションをずらしてまで読売ジャイアンツ戦、阪神タイガース戦に登板させた結果、序盤で試合を壊すなど成績が急激に悪化してオールスター後は僅か1勝しか挙げられなかった。最終的に松坂大輔に次ぐリーグ2位の10完投、4完封を記録したものの、7勝11敗と2桁勝利を逃し、被安打はリーグ2位を記録。新人王争いも八木に軍配が上がった。
2007年はスライダー中心の投球から、カーブ、フォークを多めに使う投球に変化した。特にフォークで三振を奪うシーンが目立ち、奪三振数は前年より増えリーグ10位を記録する等、多くの面で改善が見られた。一方でコリンズ新監督の方針により、100球前後の球数制限が設けられたため、完投は98球で無四球完封勝利した7月24日の北海道日本ハムファイターズ戦と8月7日のロッテ戦の2試合だけに終わった。なお、前者の試合では同姓の平野恵一が先制本塁打に追加点となる犠牲フライを放ち、2人が試合後のお立ち台に上がる「ダブル平野」でのお立ち台が実現した。また、球数制限を意識するあまりストライクゾーンに球を集め過ぎたのが災いしたのか、シーズン序盤は被本塁打が多く、中盤以降は減ったものの通年では川越英隆に次いでリーグ2位の18被本塁打。前年を上回る8勝を挙げて防御率も良化したが、援護がなかったり、中盤に炎上するなど点の取られ方が悪く、前年同様シーズン後半になると失速していく傾向も変わらず、リーグワーストの13敗を記録した。9月24日のロッテ戦では抑えとして登板。「今後も抑えで起用したい」とコリンズ監督は発言したが、同年最終登板となった9月30日の埼玉西武ライオンズ戦では先発した。秋季キャンプではコリンズ監督にチェンジアップの習得と直球の制球力向上を命じられた。
2008年は「チームにとっても、自分にとってもおめでたい年になれば」という意味を込めて、自身のグラブに“寿”の一文字を縫い込み、「自身の成績がチームの勝敗を左右する」と発言するなど、「次期エース」ではなく、「エース」としての自覚をもって臨む決意を示していたが、シーズンイン直前に肘痛で離脱。検査の結果、骨の断片が肘に入っている状態(遊離軟骨)であることが判明し、3月27日に神戸市内の病院で遊離軟骨の除去手術を受けた。8月8日、一軍の練習に参加し、状態は完全ではないとしながらもフリー打撃に登板した。また、フォームを従来の常時セットアップからワインドアップに修正したが一軍登板はなかった。
2009年は開幕ローテーション入りを果たすも、4月11日に逆流性食道炎でわずか先発1度のみで登録抹消。なお、これにより体重が大幅減、復帰後もその影響により本来の調子が取り戻せず、この年は不振に苦しむこととなる。再昇格した5月24日の読売ジャイアンツ戦に先発し、6回1失点で2007年9月30日以来602日ぶりに勝利投手となった。その後、5月31日の横浜ベイスターズ戦では9回を6安打無失点に抑え、2007年8月7日以来662日ぶりの完封勝利を挙げた。しかし、6月になると不安定な投球が目立ち、そこから全く勝てなくなってしまう。7月からは好投する時こそ増えたものの、今度は打線の援護に恵まれないケースばかりが先行し、3勝目をあげたのは、9月12日の西武戦になってからだった。最終的には3勝12敗、防御率4.72と大幅に負けが先行する成績に終わった。
2010年は新監督岡田彰布がリリーフ転向を明言。2月27日の阪神とのオープン戦こそ先発するも3回7失点で、以降中継ぎとして起用。しかしこれがはまり、シーズンを通してセットアッパーとして定着した。特にストレートが常時140キロ後半を超えるほど球威が復活し、ピンチの場面でもストレートで三振を奪う場面が多く見受けられた。またこの年、ルーキーイヤー以来となるオールスターにも出場するなど、最終的に63試合に登板し、防御率1.67、39ホールドポイント、奪三振はリリーフでリーグ最多の101奪三振を記録した。
プレースタイル [編集]

最速156km/h、常時150km/h前後の直球に、スライダー、シュート、カーブ、フォークボールと多彩な球種を投げる。四死球の少ない制球力も持ち味。
立ち上がりの悪いスロースターターだが、1年目に10完投を記録し、2007年のパ・リーグにおける先発投手としての平均球速はダルビッシュ有に次ぐ2位を記録するなど、1試合を投げきるスタミナは豊富な先発型投手。一方で好不調の波が激しく、夏場以降失速する傾向があり、シーズン通してのスタミナに課題を残す。
福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルスとの相性が悪く、特にソフトバンクは2007年の対戦成績が4試合で0勝3敗の防御率8.85の成績だった。ただし、リリーフ(2回2失点自責点1)としてではあるが、2010年4月14日の対戦で初めてソフトバンクから白星を挙げた。
人物 [編集]

高校時代に同じ京都出身の今江敏晃に本塁打を打たれたというが、「今江は覚えていないかも」と週刊ベースボール誌上で話した。
2007年シーズン前には完投数を増やすことを目標の一つに挙げた。
座右の銘は「一所懸命」。これはアマチュア時代の監督の教えからの影響である。
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【2010/11/08 22:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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