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平野 佳寿(ひらの よしひさ、1984年3月8日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 人物 4 詳細情報 4.1 年度別投手成績 4.2 背番号 4.3 個人記録 5 関連項目 6 外部リンク 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 京都府宇治市出身。小学3年時に軟式少年野球チームの「小倉リトルズ」で野球を始め、捕手兼内野手としてプレー。宇治市立北宇治中学校時代は軟式野球部に所属して投手に転向。鳥羽高校在学中に同校は第72回選抜高等学校野球大会、第82回全国高等学校野球選手権大会、第73回選抜高等学校野球大会と3季連続で甲子園に出場するが、腰痛もあって2番手投手に甘んじ選手権大会ではベンチ入りメンバーからも外れた。 関西六大学野球連盟所属の京都産業大学に進学後は2年時からエースとして活躍し、大学ナンバーワン右腕と評された。大学通算36勝、404奪三振のリーグ新記録を樹立し、関西運動記者クラブによる第49回(平成17年度)関西スポーツ賞(個人の部)に選出された。 2005年の大学・社会人ドラフトにおいて希望枠でオリックスに入団。入団会見では「10勝以上勝って新人王を獲得したい」と語った。 プロ入り後 [編集] 2006年はプロ初先発となった3月30日の楽天戦で初勝利を挙げ、4月6日の千葉ロッテマリーンズ戦では新人で一番乗りとなる完封勝利を挙げた。前日まで完封勝利を挙げた投手がおらず、新人でシーズン一番乗りとなる完封勝利の可能性があったが、平野が完封勝利を挙げる約9分前にダルビッシュが完封勝利を挙げシーズン一番乗りの完封勝利は逃した。その後も長谷川滋利以来の新人3完封勝利を序盤戦で達成するなどの活躍を見せ、八木智哉とハイレベルな新人王争いを繰り広げ、共にオールスターに監督推薦で選ばれた。しかし、中村勝広監督が「平野は新人王のために完投させる」と公言し完投を強いて、セ・パ交流戦では先発ローテーションをずらしてまで読売ジャイアンツ戦、阪神タイガース戦に登板させた結果、序盤で試合を壊すなど成績が急激に悪化してオールスター後は僅か1勝しか挙げられなかった。最終的に松坂大輔に次ぐリーグ2位の10完投、4完封を記録したものの、7勝11敗と2桁勝利を逃し、被安打はリーグ2位を記録。新人王争いも八木に軍配が上がった。 2007年はスライダー中心の投球から、カーブ、フォークを多めに使う投球に変化した。特にフォークで三振を奪うシーンが目立ち、奪三振数は前年より増えリーグ10位を記録する等、多くの面で改善が見られた。一方でコリンズ新監督の方針により、100球前後の球数制限が設けられたため、完投は98球で無四球完封勝利した7月24日の北海道日本ハムファイターズ戦と8月7日のロッテ戦の2試合だけに終わった。なお、前者の試合では同姓の平野恵一が先制本塁打に追加点となる犠牲フライを放ち、2人が試合後のお立ち台に上がる「ダブル平野」でのお立ち台が実現した。また、球数制限を意識するあまりストライクゾーンに球を集め過ぎたのが災いしたのか、シーズン序盤は被本塁打が多く、中盤以降は減ったものの通年では川越英隆に次いでリーグ2位の18被本塁打。前年を上回る8勝を挙げて防御率も良化したが、援護がなかったり、中盤に炎上するなど点の取られ方が悪く、前年同様シーズン後半になると失速していく傾向も変わらず、リーグワーストの13敗を記録した。9月24日のロッテ戦では抑えとして登板。「今後も抑えで起用したい」とコリンズ監督は発言したが、同年最終登板となった9月30日の埼玉西武ライオンズ戦では先発した。秋季キャンプではコリンズ監督にチェンジアップの習得と直球の制球力向上を命じられた。 2008年は「チームにとっても、自分にとってもおめでたい年になれば」という意味を込めて、自身のグラブに“寿”の一文字を縫い込み、「自身の成績がチームの勝敗を左右する」と発言するなど、「次期エース」ではなく、「エース」としての自覚をもって臨む決意を示していたが、シーズンイン直前に肘痛で離脱。検査の結果、骨の断片が肘に入っている状態(遊離軟骨)であることが判明し、3月27日に神戸市内の病院で遊離軟骨の除去手術を受けた。8月8日、一軍の練習に参加し、状態は完全ではないとしながらもフリー打撃に登板した。また、フォームを従来の常時セットアップからワインドアップに修正したが一軍登板はなかった。 2009年は開幕ローテーション入りを果たすも、4月11日に逆流性食道炎でわずか先発1度のみで登録抹消。なお、これにより体重が大幅減、復帰後もその影響により本来の調子が取り戻せず、この年は不振に苦しむこととなる。再昇格した5月24日の読売ジャイアンツ戦に先発し、6回1失点で2007年9月30日以来602日ぶりに勝利投手となった。その後、5月31日の横浜ベイスターズ戦では9回を6安打無失点に抑え、2007年8月7日以来662日ぶりの完封勝利を挙げた。しかし、6月になると不安定な投球が目立ち、そこから全く勝てなくなってしまう。7月からは好投する時こそ増えたものの、今度は打線の援護に恵まれないケースばかりが先行し、3勝目をあげたのは、9月12日の西武戦になってからだった。最終的には3勝12敗、防御率4.72と大幅に負けが先行する成績に終わった。 2010年は新監督岡田彰布がリリーフ転向を明言。2月27日の阪神とのオープン戦こそ先発するも3回7失点で、以降中継ぎとして起用。しかしこれがはまり、シーズンを通してセットアッパーとして定着した。特にストレートが常時140キロ後半を超えるほど球威が復活し、ピンチの場面でもストレートで三振を奪う場面が多く見受けられた。またこの年、ルーキーイヤー以来となるオールスターにも出場するなど、最終的に63試合に登板し、防御率1.67、39ホールドポイント、奪三振はリリーフでリーグ最多の101奪三振を記録した。 プレースタイル [編集] 最速156km/h、常時150km/h前後の直球に、スライダー、シュート、カーブ、フォークボールと多彩な球種を投げる。四死球の少ない制球力も持ち味。 立ち上がりの悪いスロースターターだが、1年目に10完投を記録し、2007年のパ・リーグにおける先発投手としての平均球速はダルビッシュ有に次ぐ2位を記録するなど、1試合を投げきるスタミナは豊富な先発型投手。一方で好不調の波が激しく、夏場以降失速する傾向があり、シーズン通してのスタミナに課題を残す。 福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルスとの相性が悪く、特にソフトバンクは2007年の対戦成績が4試合で0勝3敗の防御率8.85の成績だった。ただし、リリーフ(2回2失点自責点1)としてではあるが、2010年4月14日の対戦で初めてソフトバンクから白星を挙げた。 人物 [編集] 高校時代に同じ京都出身の今江敏晃に本塁打を打たれたというが、「今江は覚えていないかも」と週刊ベースボール誌上で話した。 2007年シーズン前には完投数を増やすことを目標の一つに挙げた。 座右の銘は「一所懸命」。これはアマチュア時代の監督の教えからの影響である。 PR |
来歴 [編集]
1998年6月20日、ジャニーズ事務所へ入所。オーディションへの応募の理由は、「自分が知らないうちに、母が履歴書を送り、訳が分からないまま、オーディションへ行った」。また、「いとこが受けるからついてきてと一緒に受けたのにいとこは落ちて自分が受かった」とも語っている[2]。 堀越高等学校卒業後、城西国際大学メディア学部に入学したが、その後休学[3]し、2008年3月に中退した。 人物 [編集] 身長170cm、体重55kg。愛称はコーキ、コウちゃん、コウくん。好きな食べ物は肉とラーメン。嫌いな食べ物はピーマン。獣医師を目指していたほどの動物好き。好きなお笑い番組は『爆笑オンエアバトル』。 腰にタトゥーを入れている。 演技力が優れていて「天才少年」と称されるほど抜きんでた演技力の持ち主。2000年には映画『カラフル』で映画初主演を果たし後に、この『カラフル』は世界的権威のある「モントリオール映画祭」に出品され、田中は現地の関係者から「グレート・アクター」と評価された。 5人兄弟の二男。弟(四男)の田中樹は2008年4月からジャニーズJr.に所属している。また、田中主演の映画『カラフル』には三男の弟、テレビドラマ『特急田中3号』には樹と五男の弟が出演した。 出産前に親は「女の子(が生まれる)であろう」と思っていたため、聖(まりあ)と名づけようと考えていたが、出産後に男の子と分かった為、字はそのままに読みが替えられた。 チャームポイントは坊主頭。以前は長めだったが、2005年後半頃から坊主にした。坊主頭にした理由は「長い髪は邪魔くさいから」。また、その際に彼の頭を刈ったのは渋谷すばる(関ジャニ∞)である。坊主頭はKAT-TUNでは唯一で、ジャニーズを含めた他のアイドルでもほとんどいない。 「『はねるのトびら』の1コーナー「おじいちゃんといっしょ」で流れていた、秋山森乃進(ロバートの秋山竜次のコントキャラクター)の「KAT-TUNメンバー覚え歌」では坊主頭である事を毎回ネタにされていた(「10年後はジダン」「二等兵みたい」「悪い事したのかな」「ゴーンより短い」「田中も坊主、亀田も坊主」など)。その後、秋山とはテレビドラマ『特急田中3号』で共演を果たしている。一時期、坊主頭では無かったこともあったが、テレビドラマ『必殺仕事人2009』の撮影に伴い再び坊主頭になった。 ジャニーズ事務所所属のアイドルとしては珍しいラッパーであり、KAT-TUNのほとんどの曲にはラップが入っておりすべてを田中本人が担当、JOKER名義で作詞をしている。田中のラップはリズム重視で歌詞はあまり気にしていないと思われがちだが実際は、曲にあったリリック、テレビ番組では即興ラップなども披露し、ラップの能力は充分にある。 趣味は、洋服やスニーカーのリメイク、何かを作るなど。ニードルワーク(針仕事)が得意で、常に裁縫セットを持っている(テレビドラマ『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』で自身が演じた真鍋和弥も裁縫が得意という設定になっている。また、テレビドラマ『必殺仕事人2009』で自身が演じる仕立て屋の匳も表家業は裁縫等を使い生計を立てる設定となっている)。 |
来歴 [編集]
1996年12月25日にオーディションを受け合格し、練習生として入所。応募のきっかけは、同級生にジャニーズJr.のメンバーがおり、その子をテレビで見た横山の母が「うちの子のんがかっこええ」と履歴書を送ったこと。ジュニア時代は渋谷すばる、村上信五と並んで関西ジャニーズJr.の中心として活躍。東京での仕事が少ない関西ジャニーズJr.の中でも比較的早い段階で東京に呼ばれていたメンバーの1人でもある。 2002年に関西ジャニーズJr.のメンバーで関ジャニ∞を結成し、2004年、「浪花いろは節」でCDデビュー。 2007年12月17日-23日に大阪松竹座で初のソロコンサートを開催。2008年春にも第2弾となるソロコンサートを名古屋・東京で公演した。更に2010年春にはソロコンサートの全国ツアーを開催(14都市)。 関ジャニ∞のトークを引っ張りバラエティ番組で活躍する他、現在はドラマ出演なども増えている。 人物・エピソード [編集] ジャニーズのタレントでは珍しく芸名である(本名を隠している訳ではなく、番組のトークなどで名前の話題が出た時には、横山本人が自身が芸名である事と本名を答えるのが恒例となっており、ファンにも本名は周知されている)。理由は本名の漢字の読みが難しいからとのことで、芸名の名付け親はジャニー喜多川社長。 男3人兄弟の長男。弟とは海外旅行や、しょっちゅう一緒に銭湯や食事に行くほど仲がよく、公式携帯サイトのブログでもよく弟の話題が出ている。 バスケットボールが好きで、中学時代もバスケ部に所属していた。現在も仲の良いお笑い芸人たちとよくプレーしており、そのためか今でも駿足は健在である。 「どうも〜○○な横山裕ですけども。」が決まり文句となっている。お気に入りの挨拶「こんにち(ばん)ワンツー」は、テレビのリハーサル中に思いついたもので、現在流行語大賞にしようと目論んでいる。自身のラジオ番組では、リスナーとの会話の際の挨拶に使用されている。 テレビでは明るく騒がしいイメージだが、普段はとても口数が少ないという。「メンバー1」とまで言われるかなりの人見知りであり、ドラマで共演した深田恭子には「ドラマの現場では(横山は)とても静かでしたよ」、 松浦亜弥にも「目を合わせてくれない」、櫻井翔からは松浦のことを最初から最後までさん付けで呼んでいたことも暴露された。 ドラマでは近年、主人公を苦しめるクールな悪役を演じることが多い。そのことについて本人は「楽しんでやれているから満足」と語っている。 コンサートでは「このメンバーで良かった」等とグループへの想いを口にする事も多く、テレビでの印象とは裏腹に、メンバーからも「優しい」「友達思い」「気遣い屋」と言われることが多い。風邪を引いた際に寝ずに看病してくれた、海外旅行中に迷子になった際に一晩中探してくれていたなどのエピソードもある。とてもメンバー想いで、慕われている様子が窺える。 村上と共に中心となって話を進めていくことが多いため、関ジャニ∞のリーダーが横山であると思われる事も少なくない。実際のところ関ジャニ∞に正式なリーダーはおらず、横山・村上・渋谷の3人がリーダー的な立場を担っている。 非常に照れ屋で、人前でむやみに褒められるのが苦手。基本的にメンバーを弄り倒す立場だが、自分が弄り返されると照れまくる。 色白。本人によればこれは血筋で、母親も色白だという。 「横山会」を結成している。現時点でのメンバーは横山、大倉、 嵐の相葉雅紀、二宮和也、ジャニーズJr.の生田斗真。現在活動しているかは不明。 コンサートのMCでは、同一日の別公演であっても、同じ話をしないことを心掛けている。他のメンバーが同じ話題で二度目は心から笑ってくれないので仕方なく、と本人は語っているが、結果的にコンサートの楽しみの一つとなっている。 エピソード [編集] 関ジャニ∞のメンバー1忘れ物が多く、ラジオ、DVD、テレビなど様々なところで話題にされている。 よく噛む。本人曰く、「漢字だけじゃない。平仮名も片仮名も読まれへん」とのこと。また滑舌が悪い為、「(素面なのに)既に酔っているみたい」と言われることも多い。 仕事が少なかった下積み時代、メンバー全員がアルバイトの経験があるが、横山は中学卒業後、建設会社に就職していた経験がある。 KAT-TUNの田口淳之介に「入口、出口、田口です」という自己紹介ギャグを考案・提供した。このギャグは田口本人によりテレビ等で度々披露されている。 温泉・漫画収集が好き。大のゲーム好きで、空き時間はゲームに費やす。また大のドラゴンボール好きでもある。 絶叫マシンが大の苦手。 実は鼻炎持ちで、喘息持ちでもある。本人曰く、大きな仕事の後で気が抜けると風邪を引くタイプ。 針を体に刺すという行為に拒否反応を示しているため、注射が大の苦手。一時期はピアスに憧れていたが前述の理由で開けていない。 脇フェチだが、雑誌では鎖骨と答えている。 嵐のメンバー全員とドラマ・映画・舞台などで共演している。 愛称 [編集] 社長の口癖が「you」ということで公式サイトのアーティスト紹介は全て「横山裕(YOU YOKOYAMA)」となっている。 社長からは「ヨコ」と呼ばれているが、機嫌がいいときにだけ「白いの」と呼ばれる。ちなみに社長が芸名の候補にあげた「ケン」「ゴウ」「ジュン」は全て先輩(V6)と同じであるために却下された。焼肉屋の「上カルビ」が元となった「ジョー」や、外国人の様な容姿から「ヘンリー」も候補に上がっていた。現在の「裕」は本人が知らぬ間につけられており、本人がそれを知ったのは後日見たテレビ番組のテロップである(本人談)。 ファンやメンバーからはヨコ、ヨコちょ、裕ちん、きみくん(本名から)と呼ばれている。主にヨコと呼ばれることが多い。 メンバーの渋谷から、その時の状況に応じたあだ名を度々付けられている(「こす山」「ちょこ山」「ぽこ山」等)。しかし渋谷は面白いあだ名を付けて横山の反応を楽しんでいるだけの為、ほとんどのあだ名が盛り上がった一時にしか呼ばれていない。 「うたばん」では、司会の石橋貴明と中居正広に「横山横」と呼ばれている。これはジャニー喜多川が「裕」と名付けたが、実際は横山を「ヨコ」と呼んでいるため、石橋が提案したものである。また、「横山ノック」が元となり、兄弟全員が「ノック三兄弟」と呼ばれることもある。 KinKi Kidsの堂本剛から「縦山」「ななめ山」と呼ばれた事もある。また、後日同じKinKi Kidsの堂本光一からも「縦山」と呼ばれた。 交友関係 [編集] 渋谷とは頻繁に食事や海外旅行に行くほど仲が良く、互いに「空気のような存在」だと語っている。また、渋谷は横山のことを「命の次に大事な友達」とも語っている。 メンバーやファンから、村上との関係を「夫婦」だと称されている。ジュニア時代から長い間一緒にいるせいで、横山は「村上と何を話せばいいかわからない」と語っており、二人だけで食事に行くことは滅多にないらしい。ただ、お互いに「良い距離感」と公言している。手相芸人の島田秀平からは「(横山と村上は)ソウルメイト」とも言われていた。 月亭八光と非常に仲が良く、頻繁に食事へ行っている。2人で海外旅行に行ったり、週に何度も会う事もある。仲が良い故に、「関ジャニ∞のジャニ勉」などで様々な暴露をされている。 嵐のメンバーと仲が良い。特に相葉や二宮とは一緒に食事に行く仲で、相葉とはジュニア時代に一緒に風呂に入っていた。 ジャニーズ事務所内のタレントでは他に、生田斗真、滝沢秀明、亀梨和也、中丸雄一、田口淳之介、赤西仁らと交流がある。また、関西ジャニーズJr.のユニットのVeteranの浜中文一、伊藤政氏、室龍規、菊岡正展、山碕薫太、室龍太とも仲が良く、一緒に食事に行ったりゲームをしたりするらしい。 上地雄輔とはドラマで共演して以来交友があり、生の音楽番組で共演した際に二人が楽しそうに会話をしている様子が映っていた。 |
村上 信五(むらかみ しんご、1982年1月26日 - )は、ジャニーズ事務所所属の男性アイドル。関ジャニ∞のメンバー。大阪府高槻市出身。血液型AB型。身長170.1cm、体重58kg。
愛称はヒナで、由来は、事務所に入った当初、事務所の先輩に目が雛形あきこに似てるといわれたことである。 目次 [非表示] 1 概要 2 人物 2.1 交友関係 3 大阪太郎 4 参加ユニット 5 出演 5.1 バラエティ 5.2 テレビドラマ 5.3 ラジオ 5.4 CM 5.5 舞台 5.6 ソロコンサート 6 ソロ曲 7 関連項目 8 外部リンク 概要 [編集] 1996年12月25日、本当はNSC(吉本総合芸能学院)に入りたかったものの、同級生からの薦めでジャニーズ事務所のオーディションを受け、練習生として入所。横山裕と同じオーディションであった。ジュニア時代は横山裕、渋谷すばると並んで関西ジュニアの中心として活躍。東京での仕事が少ない関西ジュニアの中でも比較的早い段階で東京に呼ばれていたメンバーの1人でもある。 2002年に関ジャニ∞を結成し、2004年に「浪花いろは節」でCDデビュー。2006年12月21・23・24日に大阪松竹座でソロコンサートを公演。2008年1月19日 - 2月3日(東京グローブ座)・2月9日 - 2月15日(梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ)、渋谷との二人舞台「『未定』[壱]」の公演を行った。この公演は渋谷・村上セルフプロデュース公演であり、二人で作・演出・出演の三役をこなした。2009年1月10日 - 2月3日まで東京・大阪において一人舞台「If or...」を公演し、翌2010年2月5日 - 3月3日、東京・大阪において続編となる「If or...Ⅱ」を公演した。 人物 [編集] 弟が1人いる。 グループのツッコミ・仕切り担当で、尊敬する人物はナインティナインの矢部浩之。 横山と共に司会者的な立場で話を進めていくことが多いため、関ジャニ∞のリーダーは村上であると思われる事は少なくないが、実際のところ関ジャニ∞に正式なリーダーはおらず、渋谷・横山・村上の3人がリーダー的な立場を担っている。 イメージカラーは紫。関ジャニ戦隊∞レンジャーの時は、ナスレンジャーと呼ばれている。 コンサートで、メンバー全員でバンド形式で曲を披露する際はキーボードを担当している。 中学時代はバスケット部に所属。しかし今は大のサッカー好きで、休日にはメンバーや後輩、スタッフを集めてはフットサルをしている。 本人は自覚がないそうだが、渋谷らメンバーから「引くぐらいS」と言われている。 虫が大の苦手。メンバーで移動中、パーキングエリアで安田がおもちゃのカブトムシを見せたところ、本気でキレた事もある。またライブDVD「47」の特典映像に、横山にカブトムシを肩に乗せられて大騒ぎしていたり、ヤドカリを触るのに躊躇していたりする様子が収録されている。また、犬も苦手である。 2009年夏に「ピンでCMが決まった」とラジオ番組で報告したが、それはメンバーが3ヶ月も前から仕掛けたドッキリだった。本人はドッキリだと全く気付かないまま進み、その騙されているところからネタばらしまでの全てが、ライブDVD「PUZZLE」のB盤に収録されている。 しっかりしている見かけとは裏腹にこわがりで寂しがりな一面がある(丸山談)。また天然であり、冷やし中華を冷まして食べようとしたり、肘の裏と表が分からなかったりする。本人は自覚はないとのこと。普段はお酒を飲んでもあまり酔わないがときどきハメをはずすらしい(横山談)。自身の誕生日会ではメンバー全員に祝ってもらったことが嬉しくて飲みすぎ、酔って途中から記憶がなくなっていた。 交友関係 [編集] 関西ジャニーズJr.の伊藤政氏と仲がよい。 自身のサッカー好きもあり、大久保嘉人(ヴィッセル神戸)などサッカー選手とも複数親交がある。 水泳の北島康介と親交があり、「康介」と下の名前で呼んでいる。 グループ内では、丸山とプライベートで旅行に行くなど仲が良いが、酔うと説教することもあるという。メンバーの渋谷、横山とは同い年で、ジュニア時代から10年以上に渡り一緒に仕事をしている。横山とは2人でラジオのパーソナリティも務めており、この2人が関ジャニ∞のトークを引っ張っているが、プライベートでは「何を話して良いかわからない。2人だけで食事には絶対行けない」といい、楽屋でも必要最低限しか喋らないとか。ただ、渋谷からはこの2人の関係を「熟年夫婦」と言われており、仲が悪い訳ではまったくなく、良い関係性、距離感とお互いに公言している。 国分の29歳の誕生日には0時ぴったりにバースデーコールし、翌年は「30歳になる瞬間を一緒に跨ぎましょう」と言って5分ほど前にかけ、電話を2台使用して共に時報を聞き、「お前は俺の女か」と国分にツッコまれていた。 ジャニーズjrの頃は滝沢秀明が嫌いだった。村上と同期で事務所に入所した渋谷すばる、横山裕も滝沢の事が嫌いだった。理由は、「ただの嫉妬」と言う本音を漏らした。だが20歳頃、滝沢と一緒にディズニーランドに行き、互いに嫌いだったと本音を打ち明けあって仲良くなり、今では毎年お互いの誕生日にプレゼントを贈りあったりしている。 大阪太郎 [編集] 大阪 太郎(おおさか たろう)は、村上が2006年12月に行ったソロコンサートで披露したキャラクターである。自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『レコメン!』から生まれ、村上と共に同番組のパーソナリティを務める横山がプロデュースした。村上とは別人という設定のもとにキャラクター作りをしたが、同一人物である事は特に隠していない。 大阪を救うヒーローで、ニンニクが好物、あまり金を持っていない、キレると標準語になる、などの設定がある。衣裳はスーパーマンをイメージしており、胸に「太郎」と書かれている。テーマソングの「浪花やで!」は、ウルフルズの「ガッツだぜ!!」を替え歌したもので、歌詞は前述のラジオ番組の聴取者から募集した。当初はサビのみだったがソロコンサートに向けAメロ、Bメロも作られた。 2009年プロジェクトが村上自身の誕生日にあわせて進行し、横山が熱望していた間奏でのラップも入った。2009年12月24日の放送にて再度リスナーから歌詞を募集し、「なにわやで2010 寅さんリミックスバージョン」が完成した。これは通常のなにわやで の前に「男はつらいよ」の寅さん風の台詞を加えたものである。2009年12月31日の放送中から2010年1月1日へと日付が変わった瞬間に、初披露された。なぜか募集された歌詞には「金」「ニキビ」「ゴリラ」など村上をいじった言葉が多かった。なお、2010年6月には「下半期バージョン」と称し、再度歌詞の募集を行う予定であると番組内で横山が公言している。 |
人物 [編集]
「そんなわけねぇだろ!」「やめろよ!」「うるせぇよ!」「いい加減にしろ!」「しつけーよ!」等、ストレートなツッコミをする。そのため、かつては「平成のビートきよし」の名を持っていた。しかし太田の無軌道なボケにもきちんと拾い上げて対応し、テンポがいいため、太田にとって貴重な存在でもある。また他の芸人のアドリブによるボケにも瞬時に的確にツッコむ技術を持っている。ただ、ノリツッコミは恥ずかしくて出来ないと本人が語っている。 テレビ朝日の大熊英司アナウンサーに似ている(大熊アナウンサーがニュースの司会をやっているのを見て「自分か!?」と思った事があるエピソードがあるとコメントしている)。 東條英機とは遠戚である。 背の低さや睾丸摘出といった身体的特徴を太田にネタにされたり、共演者からイジられる多い。また、その外見から子供扱いされることもしばしば。 ミニストップでアルバイトをしていた。そのため、太田から「チビストップ」とよくネタにされている(優秀だったため、店長に抜擢されたことがある)。 実兄は元コム・デ・ギャルソン・オム(オムオム)の服飾デザイナー田中啓一。実姉はアツキオオニシ、ピンクハウスなどの服飾デザイナー田中里美。父は「人類生き残り研究会」会長。母方の従姉に声優のならはしみきがいるが、爆笑問題カーボーイでの田中の発言によると親戚ではあるが面識がないのでどのような人物であるのか分からず年齢は自分より上という事しか知らないとのこと。おばは阿佐谷の商店街「パールセンター」の名付け親。親類の結婚に絡んで、東條英機が遠戚にあたるようになった。 視力は0.1未満で、コンタクトレンズを使用している。また、時々メガネをかけてテレビに出演することもある。 チェッカーズ、小泉今日子、田原俊彦、近藤真彦、佐野元春、サザンオールスターズ、読売ジャイアンツ、ファミスタ(ノーヒットノーランを達成したことがある)、松田聖子、安倍なつみの大ファン。 巨人ファンである。特に原辰徳の大ファンであり、中居正広(SMAP)、堀内健(ネプチューン)、ビビる大木らと原の話題で盛り上がることが多いと発言していた。伊集院光が言うには、「100対0の巨人の勝ち試合でも喜ぶ」と言っている。 ミミズは名前を聞くと寒気がするほど大嫌い。ミミズをたくさん入れた風呂と毒蛇をたくさん入れた風呂ならば、毒蛇をたくさん入れた風呂に入ると答えている。 無類の猫好き。自身も猫を飼っており、猫に話しかける時は赤ちゃん言葉になるため、太田に「キモイ」と言われている(太田も猫好き)。 椎茸が大嫌い。肉まんに椎茸が入っているとそれをきれいに取り除いてから食べる。また、紫蘇やミョウガ、セロリ等香りの強い野菜や軟骨の焼き鳥やクラゲの食感も苦手で食べ物の好き嫌いはかなり多いらしい。因みに好物はスイーツ。 一般的に太田は変わった人物で、田中はまともで普通の人間というイメージを持たれることが多いが、伊集院光からは「太田さんは変な人、田中さんは化け物」と称された[4]。また『JUNK 交流戦スペシャル』では、仕事がなかった時代に草野球で伊集院に対し「毎日野球出来るから楽しくてしょうがないんだよ」と発言したエピソードを紹介し、普通のお笑い芸人なら持っている筈の危機感を持たない田中を総じてそう表現した。 また、「爆笑問題のニッポンの教養 放送100回記念スペシャル『爆問学問』学」では同じく伊集院光に「この番組見ててすげえと思うのは、太田さんと各界の知識人が凄いレベルの高い話をしてて、剣豪同士の斬り合いをしてる中、田中さんは普通に『すいませんボール取らしてください』つってひょいっと入って行けて、しかも斬られないんだよね」と評される。 本文を太田、そして挿絵の代わりに紙粘土細工を田中の組み合わせでエッセイ集を何冊か発売しており、紙粘土の個展を開いたこともある。 草野球ではピッチャー。投球フォームは基本に忠実でカーブが良く曲がり、スピードはないがコントロールは抜群らしい。特定の草野球チームには所属していないが時間がある時には仲の良いタレントのチームに参加している。 普段は太田のことを「光」と呼ぶ。仕事のときに「太田さん」と呼ぶのは仕事とプライベートの区切りをつけるためであると本人が語っている[5]。 度々相方の太田と比較され「非凡な太田、平凡な田中」と揶揄されることが少なくない。『爆笑問題のニッポンの教養』のスペシャルで、早稲田大学で公開収録を行った際に参加していた学生から「太田さんに比べると田中さんは普通ですね」と言われ、「お前、金玉1個で生きてみろ!」と言い放った。 テレビでは太田の影に隠れているが、田中もかなりの毒舌家である。沢尻エリカの挙式が話題に出たときに「沢尻は西洋のお城で挙げる印象があるのに、なぜ『逆に』神前式なのか、明治神宮なのか」と太田と共に、彼女の結婚相手であり日大芸術学部の同世代である高城剛の発想の厭らしさを批判している。その後も田中は太田以上にヒートアップし、「『逆に』という発想しか出来ない、そういう男なんです」と言い放った。その時のコーナーに出ていたアナウンサーの柴田秀一もその田中のヒートアップぶりに、「田中さんがそうなっちゃうと誰も止められないんですよねぇ…」と苦笑していた[6]。また、『とくダネ!』でのオープニングトークで小倉智昭がWBCの対韓国戦アジア決勝にて「あそこでなぜ、イチローを走らせなかったのか」と、原監督の指示が盗塁についてなかったことを批判したことに対し、「お前(小倉)なんかより、原監督の方が詳しいよ。原監督はもちろん、盗塁も考えただろう。その上で、盗塁を指示しなかったんだよ」と指摘した[7]。ただし、太田のように言いっぱなしではなく、発言した翌週の『爆笑問題カーボーイ』などで反省の弁を述べることもある。 近年は俳優としてドラマや映画に出演することが多い。 エピソード [編集] 30歳になるまで女性と付き合ったことがなく、24歳のときに新宿歌舞伎町の高級ソープランドにて初体験をすませた(しかも、太田らのおごり。そのため、しばしばネタにされ、本人も番組などで認める)。ただ、これは元々太田ら友人の誘いによるもので、田中本人は風俗に行くことを非常に嫌がっていた。その理由として「僕はテトロポリキョン星人だから、そんなことはしない」と発言(なお、彼の脳内では小泉今日子もテトロポリキョン星人とのこと)。しかし、泣くほど嫌がっていたにもかかわらず、店は「前から行くならココと決めていた」という自分の指定した所であり、終わった後、待合室で待っていた太田に「気持ち良かった」と満足そうに言ったため、腹を立てた太田に「二度と風俗に行けない身体にしてやる」という理由で陰毛を剃られてしまった。 大学時代はかなりのナルシストであり、自分に想いを寄せている女性を田中自身も気にかけており、十分カップルになりえたのだが、「僕は皆のアイドルだから1人のものになりたくない」という理由で付き合わなかった(本人はこの発言を恥じている)。これは、しばしばネタにされている。 1998年から1年間札幌テレビ製作『号外!!爆笑大問題』で共演していた「爆笑娘。」の一員であるあかぎあいのことを、本気で好きでいた。同番組内で何度かネタにされている。 1999年4月より子供番組『ポンキッキーズ』にネズミの着ぐるみキャラクター「爆チュー問題」の「たなチュー」としてレギュラー出演。2006年5月よりその独立番組『空飛ぶ!爆チュー問題』にて引き続き出演。 2001年11月に出演した『THEわれめDEポン』に初出場で優勝したことで、麻雀の雀士として同番組にレギュラー出演している。その後『うまなりクン』の「ウマでもわかる競馬基礎講座」で田中が獲得した100万円を優勝賞金として麻雀が行われた。田中は名馬を紹介しながらやったが、見事田中が優勝した。 2002年6月28日、『ぐるぐるナインティナイン』に田中が出演。実は田中とナインティナインの岡村隆史が犬猿の仲という報道記事が載り、これをネタに本人達による再現コントパロディを放送(スーパーで大喧嘩)。だが、実際は共演が多いため、仲は悪くない。ラジオ等でゴルフ仲間として時折名前を出すこともある。 2002年12月3日、太田がラジオで「解散宣言」。この話題は報道にも載ったのだが誤報の新聞もあったため、本人達は否定していた。 田中が太田の言動にブチ切れて「解散だ!」と叫んだことは何度かあるらしく、その詳細が太田によって著書などで明らかになっている。一方、太田は彼が尊敬する立川談志の忠告により、どんな状況下でも解散を考えたことは一度もない。 2010年5月16日、ドキュメンタリー番組『情熱大陸』に単独出演。田中自身も番組を視聴したが、翌週のラジオ番組でそのあまりに平凡な内容に、「久しぶりに落ち込んだ」と語った。また、太田からはその平凡過ぎる内容ゆえに「平熱大陸」とまで揶揄された[8]。視聴率では翌週放送された太田編を上回っている。 自身生粋のお笑い芸人ではない、又は成れないと告げている。その場で頭を叩かれれば笑いが取れると分かっていても、「痛いのは嫌だ」と身構えて舞台で客を引かせていたことがあるが、それを積極的には改める気はないと告げている。また太田が際限なくボケる都合上、進行役に徹しないといけないと分かっていながらも、「面倒くさい」「本当はやりたくない」と素直に告白している。漫才や司会も「仕事」と言い切って、なかば仕方なくやっていると言っては太田を苦笑させている。ただ何事にも無気力という訳ではなく、熱中している草野球に関しては大雨の中でもユニフォームを着込みいそいそと駆けつける気概を持っている。 ロックバンド「安全地帯」のドラムス担当だった田中裕二とは同姓同名で、『爆笑問題カーボーイ』でリスナーの投稿作品によってネタにされたことがある。 田中と競馬 [編集] 大の競馬ファンでも有名で過去にも『うまなりクン』にレギュラー出演、トリビュートにも日本ダービー特集などに出演した。好きな馬は、オグリキャップとグラスワンダー、スペシャルウィーク、ミホノブルボン。『うまなりクン』最終回で1998年の有馬記念を印象に残ると言っていた。たまに『爆笑問題カーボーイ』の中で語ることもある。 2003年、『FNS27時間テレビみんなのうた』は宝塚記念を同番組内で中継した。その時にはみのもんた、爆笑問題、高島彩が司会をした。「爆笑田中が選ぶ名レース」と題しレースを紹介した。1位は1998年の有馬記念である。このレースは自ら馬券を当てたレースでもあった。 2005年11月から東京スポーツでJRA中央競馬予想コラム『爆笑問題田中裕二の爆勝予想』を連載している。連載初回に予想馬券を当て、東京スポーツの1面を飾った。2005年以前には、太田と共に日刊スポーツで不定期に予想を掲載しており、1面を飾ったことがある。 ちなみに太田の予想は、その多くが自分の好きなもの・名前になぞらえたものであった。例えば、1999年の桜花賞では、太田が好きな作家のトルーマン・カポーティになぞらえ、カポウティを父に持つフォルナリーナを本命にしたが18着(最下位)に終わった。対抗もカポーティの代表作『ティファニーで朝食を』からステファニーチャンを推したが17着であった。 2007年7月3日深夜放送『爆笑問題カーボーイ』のオープニングトークにて同年6月30日2回福島5日目第7レースの馬券をPATで購入し、馬連8万3,570円(購入額1000円)と三連複11万9,000円(購入額500円)を的中させ、計143万700円の払戻(口座振込)を受けたことを告白した。 2007年、前述コラムにて第43回新潟記念の予想を的中させた(トウショウヴォイス3連単軸1頭マルチ)。実際に馬券もPATで購入しており、3連単27万7,430円(購入額200円)を的中させ、計55万4860円の払戻(口座振込)を受けたことを同年8月28日深夜放送『爆笑問題カーボーイ』のオープニングトークにて話した。 第67回皐月賞大万馬券的中騒動 [編集] 2007年、前述コラムの第67回皐月賞予想で7番人気のヴィクトリーに本命印を打ち、予想を的中させた。実際に馬券も購入しており、馬連9万4,630円(購入額5千円)と3連単162万3,250円(購入額200円)を的中させ、計797万8000円を手にした。 2007年4月17日の記者会見や同日深夜放送の『爆笑問題カーボーイ』にて数々のエピソードが語られた。 田中の買い方として、GIはいつも2万円分位しか買わないが、この日別のレースでも万馬券を当ててゆとりがあったため、いつもより増額して買った(計4万3,000円分)とのこと。別レースでの万馬券的中後、フジテレビアナウンサーの福原直英に報告の電話を入れている(『めざましテレビ』で福原本人も発言)。 皐月賞は友人数人とウインズ渋谷近くの飲食店でテレビ観戦(当日太田は仕事で原稿書きとテレビ番組収録があった)。 レース後、即換金。的中馬券は携帯電話で記念撮影はしてあるが、コピーは行っていない。換金は田中の安全を考え、実際に行ったのは一緒にいた中の一人(友人の友人)であった。 お小遣い(ご祝儀)として一緒にいた友人数人には一人2万円、事務所の仲間やスタッフには一人10万円(計20人)を渡した。ただし全員分すぐには行き渡らなかったようで、4月18日『ラジかるッ』で山中秀樹が、4月19日『カンニング竹山 生はダメラジオ』で長井秀和が、その放送時点では共々「もらっていない」と発言していた(その後きちんと行き渡った)。 その後うなぎ屋にて食事をした(放送内で「もうしばらくうなぎは食べたくない」と語る)。 乗ったタクシーの運転手が競馬好きで今回の皐月賞などについて話す。降りる際、ご祝儀として「釣りは要らない」と言って運転手に1万円を渡した。ただ太田には「それじゃ普通の“釣りはいらない”と変わんねーだろ」と突っ込まれていた。後日放送の『検索ちゃん』(テレビ朝日、放送日は後述)でも同様の話をする。 田中自身はこういう事は話しまくりたい方である。だが勝手にそうすると誰かに迷惑が掛かる可能性もあり得るという事で田中は事務所の社長である太田光代に確認の電話を入れたが、なかなか繋がらず、その確認が済むまで太田に「黙っていてくれ」と口止めしたが、太田はそんなことにはお構いなく仕事で一緒になった明石家さんまに即喋った(ただし、さんまは自分の馬券を気にするだけであった)。 税理士に税金(一時所得による所得税)の相談をしたが、その時は「半分位は覚悟してくれ」と言われた。 出費予定が多いため「赤字になりそう」や「残っているうちに自転車でも買おうかと」と発言。 2007年4月20日の『検索ちゃん』にて、「買い物をした際には全部領収書をもらっていたが(以前の同放送にて)、今は安い金額の時は領収書をもらっていない」ということをクイズのネタにされた。 |